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原子力発電所事故の被害を伝える「東日本大震災・原子力災害伝承館」(福島県双葉町)をチームメートたちと訪れてみて、思い知らされたことがある。15年前のあの震災というものを、僕は何も分かってはいないということだ。
震災から間もないころ、横浜FCの一員として盛岡へ赴いて炊き出しに加わり、サッカー教室など催し、楢葉町の小学校で夢を持つことの大切さなどを語る出張授業もやってきた。かつては4年半ほど神戸に住み、阪神淡路大震災の復興支援活動にも携わってきたつもりだった。
でも、こうして福島に身を置いてみれば、避難したわけでもなく被害に直接見舞われてもいない自分は、どこか上っ面というか、結局のところは現実を何も分かっちゃいなかった。
福島ユナイテッドの鈴木勇人社長から、15年前のこと、そこからクラブがどう歩んできたかを聞いた。当時を知る証言者は、もう鈴木社長など数えるほどだけらしい。社会人東北リーグから4部相当のJFL(日本フットボールリーグ)への昇格が視野に入ってきたところで、果たせなかったのが2010年のこと。よし、もう一度挑むぞという翌年にあの地震が襲った。
練習などままならない。福島県内でのホームゲームは1年間禁じられた。「もうダメだ。解散すべきでは」と思い詰めもしたという。そんな苦労の一つすら、59年生きてきたはずの僕は知らない。
15年前の3月29日、大阪・長居でのチャリティーマッチで僕の決めたゴールや祈りのダンスが、悲嘆から希望へと進む一助になったと結びつけてくださる方々がいる。身に余る言葉だけれど、買いかぶりだとも思う。僕には本来、震災を語る資格も権利もない。耳を傾けるべき対象や物語が、別のところで光を当てられるのを待っている。
語り尽くすことはできぬであろう数々の苦労のうえに、今の福島というクラブが、あるいは今の「福島」や被災地があり、存続し、選手としてグラウンドに立つことができる。重みやありがたみが湧かずにはおかない。襟を正さずにはいられない。
人間は、つらいことは忘れるようにできている。忘れないでやっていけるほど、人生は甘いことばかりじゃない。
ただ、忘れることとなくすことは違う。折に触れて思い返し、教訓を引き出すためによみがえらせる。普段は忘れていても、必要となれば心のハードディスクから呼び出し、学びとして立ち上がらせることができる。思いや記憶はそうやって生き続ける。
先人があのとき、あの場で経験して感じたもの、残そうとしたものを受け継いでつなぐ。なかったことのようには、絶対にしない。
サッカーをやっている場合じゃないよな。選手である今の俺、価値がないよな。スポーツは社会になくても構わないんじゃないか。でも、「あった方がいい」もののはずだよな。とても明るく生きていける状況じゃない。だけど、何か明るい材料がなければ生きていけない。前に進むための明るさを――。15年前に感じたことを、思い返してみる。
降格や、不振にあえぎながらも、30年応援し続けられてきたサッカークラブがある。ポルトガル2部のオリベイレンセでいえば、お客さんが500人だけの時期を経ながらも、100年続いてきた。なくなりはしなかった。それが人々にとって、何らかの光であるからだ。
3月8日のホーム開幕戦、4-2の後半追加タイムに出場した。「カズさん、前へ前へ行ってください。もう1点取ってきてください」。意気に感じる指示を背に、ファーストプレーでボールを蹴り出すDFへスライディングした。わずかでも相手の意図する展開をそらすことができた。勝利の喜びに1センチでも貢献できたとしたら、最高だ。
ピッチへ踏み出す背中へ注がれた福島の方々の歓声や拍手が、いつにも増して胸にしみた。選手にできることはプレーという小さなものだけれど、サッカーを通じて少しでも喜んでもらえたことが幸せに思えた。選手やサッカーとの関わりの中に価値を見いだしてもらえるのなら、それが光のように何かを照らせるとしたら、こんなにうれしいことはない。
「知らない」という自覚と態度から、できることを。被災された人々や記憶に対して、誠実であり続けたい。