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長嶋茂雄さんが選手として活躍されていたときのことを、僕は同時代人として目撃・体験はしていない。それなのに「この人はすごい人なんだ」と、いつの間にかインプットされていた。ビートルズに石原裕次郎さん、美空ひばりさんらもそう。「すごいんだぞ」と誰から教わったわけでもないのに、説明や理屈抜きで、いつのまにか人々の生活に入り込んでいてね。
7歳くらいのころに目にした引退セレモニーは脳裏に焼き付いている。初めてお会いしたのは、スポーツ報知の1993年元日紙面に向けた対談でのこと。僕の結婚式にはビデオレターを寄せてくださり、監督になられてからは東京ドームに妻とともにお招きいただいた。巨人軍のオレンジのジャンパーを、気前よくお土産にくださって。
ジャケットでビシッと決めた長嶋さんが、車から降りてくる。普通に降りて車道の脇を歩けばいいものを、歩道と車道を隔てる柵をわざわざ、ポーンと足を上げて飛び越え、さっそうと闊歩(かっぽ)していく。自分の見られ方、見せ方を、分かってやっているんです。シネマスターですか、と思っちゃうくらい。
どうすれば周りの人が喜ぶのかということをよく心得ていて、プレーはもとより、生活上の振る舞いにおいても、ごく自然のこととして体現されていた。打撃練習で上着をバッと脱ぎ、背番号「3」で大見えを切ってみせる。何をさせても華があって、サマになる。すべてが絵になる。あらゆる人に愛される、野球界だけでなくすべての人たちのスーパースター。
「春のスプリングキャンプ」と言ってみたり、「メークドラマ」と言い出したり。数え切れない迷言、いや名言の数々。やることなすこと、面白くて、印象に残る。いるだけで周りが明るく、笑顔になれる。夢を見させてくれる、そんな存在だった。
長嶋さんや王貞治さんを抜きに、日本の野球が語られることはない。なぜ野球がここまで人気を博したのか。復興期の日本にどんな貢献を果たしたのか。振り返れば「長嶋・王」へと必ず行き当たる。イチローさん、大谷翔平さんら今へと連なる道を語る際、立ち返るべき、外せない不滅の基準点。そうやってこれからも受け継がれていくんだ。
「サッカー界の長嶋茂雄みたいな存在になりたい」。Jリーグが創設されようとする1990年代、取材でよく答えていたことを思い出す。マネできそうにないとしても、憧れにとどまらない使命にも似た思いを込めて。いうなれば僕は、多かれ少なかれスポーツ選手はみんな、長嶋さんの門下生でした。
心からお悔やみを申し上げ、ご冥福をお祈りいたします。とても悲しく残念ではありますけれども、長嶋さんが野球人として貫かれたことはみんなの心に、失われることなく宝物として残るはずです。「長嶋茂雄」は人々のなかで、永遠の存在として生き続けると思っています。