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欧州の大舞台で日本人選手が強豪の一員として優勝に立ち会い、トロフィーを掲げ、最優秀選手として表彰される。晴れ晴れしい光景の数々に、もはや驚かなくなった。
遠藤航選手は体格では一般的な日本人と変わらなくても、忍耐強く、リバプールの戦力として貢献してみせた。前田大然選手はJ2でプレーしていたころから速さが際立っていたけれど、あれほど得点を量産するタイプじゃなかった。それがセルティックで目覚め、今季は公式戦で33得点。どんな大物助っ人でも、異国で年間30ゴール超えとなるとなかなかできないよ。
思い返せばヒデこと中田英寿氏、小野伸二氏、長谷部誠氏、さらには香川真司選手、岡崎慎司氏と、欧州の第一線で優勝メンバーに名を連ねた先人の足跡が綿々と連なっている。5大リーグ以外に目を向ければ、今や現地で活躍する日本選手は多すぎて、とても全員を挙げきれない。きりがない。
それがとても喜ばしいことで、コツコツと進化してきた日本サッカーの歩みを物語ってくれる。
ネットを開けば、誰でも世界をより見聞きできる時代になった。けれども、実際に現地に行ってみて、身を置き、生活しないと見えてこないことがある。
おそらく日本でよく見られている「欧州のサッカー」は、トップの中のトップ、一つの基準ではあるだろうけれども全体のほんの一部でしかない。見て知ったつもりの「世界」は、案外に狭く小さいものでね。
あちらの人々は物事をハッキリ言う。遠慮しない。店でまずは「みんな、何を飲む?」なんて伺いは立てない。自分が食べたいものを、食べたい時に食べる。日本みたいに「先にどうぞ」と譲り合う文化じゃない。
その輪に入れば日本人らしさとはおとなしさ、物足りなさとも受け取られる。それがグラウンド上の振る舞いに響きもする。プレーでも遠慮しがちな選手は、そのままでは生き残れない。だから自分を変えなきゃならない。学びが始まる。海外で生き、プレーするとはそういうことだ。
見学者としてではなく、両足を現地に突っ込んでみて、あらためて日本の良さが分かる。日本の窮屈さにも気づく。そして「ああ、同じだな」と深く理解できることもたくさんある。
日本選手のきちょうめんさ、研究熱心、指揮官の指示を全うしようとする誠実さは欧州で高く評価されている。勝利が絶対でなく、どこか理想を追い求めがちなのも日本っぽい。短期の成果だけでなく、長期の積み上げ。それって、欧州的なものの考え方に近いんじゃないかな。
ただし日本人のメンタリティーと特別視されそうな資質は、実は日本の外、ブラジルなどでも重要視されている。固有というよりは普遍、万国共通の美質なんだよね。感情豊かで気性の激しい人が海外には多いという色合いの違いはあるにしても。
先日、鈴鹿市でサッカー教室を営むコーチたちに自主練習のパートナーをやってもらった。僕の言動が想像していたものとは違ったらしく、心底驚いていた。
彼らからすれば僕はある種の成功者、違う世界の住人だったみたい。それが一緒にグラウンドに立つと「パスのタイミング、もう少し合わせてくれていい?」「動き方はこうしたら」とやりとりしてきて、目線が同じ町出身の同級生みたいだったのだとか。
僕にはそれが普通だし、サッカーをしている間はみんなフラット、肩書や属性や地位は意味をなさない。サッカーを楽しみ、競う人間、それ以上でも以下でもない。マラドーナたちもそうだったんじゃないかな。
クロアチアやポルトガルにも飛び込んでみて、サッカーとはそういうものなのだと僕はより強く自覚するに至った。日本の外に踏み出せば「カズ」は何者でもない、裸の一選手。だから純粋に戦える、楽しめる。それが面白く、喜びだった。
「体験」と「経験」は違う。何かをしてみる行為そのものが前者なら、後者はその行為を通じて知識や教訓を得る意味合いがあると解釈している。行ってみるだけ、やってみるだけでも視野は広がるけど、そこでとどまるなら、その先の有意な経験は形作られにくい。
学ぼうとする心で、謙虚に未知の世界を経験していく。欧州で成長する日本選手はそうなんだろう。願わくば僕も、学ぶ人でありたい。