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「カズは一体、何歳までやるつもりなの」。それが気になる人も多いみたい。
来年は58歳。「ひとまず60歳までは」「できるなら65歳でも」と、僕が考えているのではと思う方もいらっしゃるかもしれない。
はっきり言って、どうにも分かりません。ターゲットを定めていないのが正直なところ。
毎日、体の変化に直面する。少し前なら感じなかった違和感に気づくときも、意に反してスッと不調が消えるときもある。一日スパンで対応せねばならず、先のことまで思いが及ばない。
若い頃は、日本代表になってワールドカップ(W杯)に出るという明確な目標があり、その目的地から逆算して突っ走れた。今の自分は、また違った人生のフェーズにいるんだろうね。
こうして自主トレに励んでいても、今日はどれだけできるだろう、明日は、と探り探り。年間を通じてプレーするには鍛えねばならない体の箇所がある。肉体がどこまで耐えられるか。大げさにいうと、一日先のことさえ確信は持てていない。
ただ、現役とはそういうものかもね。曇りなき計画図通りに進行するというよりも。自分では絶好調のはずが、周りの反応は「そうかな」と鈍い。かと思えば、いまひとつの手応えなのに練習パートナーは「よく動けているよ。思い過ごしじゃない?」という。思い過ごしも恋のうち、人生のうち。飛んできた「今日」をつかみ、投げ返していくような日々にも、ならではの生の実感がある。
一日一日のことしか考えられないようではプロは務まらない。でも矛盾するようだけど、一日一日を大事にしないと何も始まらない。小さく思える「点」が、最終的には太い「線」になっていくはずだと思っている。
北極星のような目標の力で駆り立てないと、成し遂げにくい物事はある。アトレチコ鈴鹿などがそうだろう。Jリーグを目指すのなら、クラブに携わる全員がプロフェッショナルのメンタルを備えなければ難しい。試合で喜ばせる選手、売り上げを稼げる事務方、各方面で結果を出すことに責任を持てる人間が必要になる。鈴鹿はまだこれから。
Jリーグになくてはならないクラブとして街に根付いた存在の一つに、松本山雅FCが思い浮かぶ。属するカテゴリーによって観客動員は多少浮き沈みはしても、火が付けば燃えさかるサッカーの下地が醸されている。その山雅にしても、1つの喫茶店から始まり、60年かけて今の姿に至っている。10年単位の時間をかけて、小さな点が気づいたら何かの形になっている、それが文化だと思う。
先日、半年ぶりにポルトを再訪した。歓迎され、居心地の良さに包まれてみて、「ああ、俺はこの街の近郊で、この地で頑張っていたんだ」と実感が湧いてきた。自分の歩みは点となって、ちゃんと刻まれていくのだなと。
やり尽くしたい。1カ月、1年後、どんな線ができているのか見渡せず、たとえ目の前の一点が、ちっぽけに見えるようなときでも。