BOA SORTE KAZU

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BOA SORTE KAZU

“サッカー人として”  2020年11月06日(金)掲載

“サッカー人として”
2020年11月06日(金)掲載

デジタルに縛られない

 いまや試合のハーフタイムで走行距離やスプリント数はもちろん、攻めの傾向までもデータでつまびらかになる。試合が終われば間を置かずにコーチが映像を編集、僕のいいプレー・悪いプレーを抜き出して個別ミーティングをしてくれる。体の動きを様々な角度から検討できるし、ケガの予防ひとつもデジタル化でずいぶんと便利になった。


 ただ、依然としてサッカーには数字で表しにくいものが多いんじゃないかな。


 「数字で年俸は査定しにくいよね」。30年前、仲間内で言っていたのを思い出す。1試合で12キロも走ったとしても、走らされていただけかも。パス成功率では、受け手がヘマをしたときも出し手の失敗にカウントすべきなのか。「受ける側失敗率」なんて数値はない。あらゆるものが数値化されたとして、それがいいプレーかは、また別物。


 数字、目の前の結果。そこを追求するアメリカナイズされた合理主義からやや外れたところが、サッカーの良さかもとも思うんだ。


 1人がタッチする時間なんて、合計しても90分間でたかだか5分間ほど。それでもボールを動かすために、見えないところでたくさんの動き、努力、割に合わない貢献がなされている。


 なかなかゴールは入らない。その中で1点を競う。遠くから決めたら「得点2倍」なんてならないし、一発逆転は望みにくい。我慢、アナログ的。人によっては面白みに欠けると映るだろうね。


 いうなれば失敗のスポーツ。長い時間をかけてコツコツとやっていれば何かいいことがあるさ、というヨーロッパ的な価値観が「サッカー」なんだと思う。デジタルだけでは割り切れない、人間的営みというか。


 僕を見に来る方々も、僕にまつわるデータを期待するだけではないし、華やかな成功だけに心動かされるわけでもないだろうしね。


 いつでもどこでも、便利になった半面、縛られて窮屈な感じがしないでもない。情報が多すぎて見たくもない情報までも流れ込んでくる。自分はどうもサッカー以外には熱中できないらしく、画像共有アプリ「インスタグラム」をやったところで、すぐに飽きそう。仕事と割り切って打ち込んでも、長続きするかどうか。私生活を開けっ広げにすることにも抵抗があるんだよね。ビンテージな昭和の花形としましては。


 存在や素顔はデジタル的にくっきりさせすぎず、ミステリアスな部分を残し、想像してもらうのも楽しいんじゃないかと。