BOA SORTE KAZU

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BOA SORTE KAZU

“サッカー人として”  2015年10月09日(金)掲載

“サッカー人として”
2015年10月09日(金)掲載

歴史が動くステップ

 1990年にブラジルから日本へ帰ってきたころ、感じていたことがある。選手や協会だけでなく、一国レベルでの盛り上がりが生まれてこないとワールドカップ(W杯)出場といった壁を破るのは難しいんだなと。僕がはっきり「W杯へ行く」と宣言したときでも、協会内ですら真に受けた人はいなかったはずだ。


 89年6月、イタリアW杯アジア地区1次予選で日本がインドネシアをホームに迎えたのだけど、会場はどこだと思います? 西が丘サッカー場。どう頑張っても9,000人以上は入らない。ちなみに前月のジャカルタでの同一カードは大競技場に観衆8万人を集めて行われている。日本は名だたる経済大国でも、サッカーへの関心はその程度のものだったんだ。


 94年アメリカW杯の予選時代、アジア出場枠は2つ。W杯はよけいに遠く感じもした。社会現象を巻き起こさなければ、歴史は切り開けない――。いまW杯で奮闘を続けるラグビー日本代表も、僕らと似た思いで壁に立ち向かってきたんじゃないかな。


 歴史が動くときは段階というものがある。92年夏に僕らの日本代表がオランダ遠征したとき取材にきたメディアはスポーツ紙2社だけです。それがその夏にダイナスティカップを優勝し、秋にアジアカップを制覇し、さあW杯予選へ向かうぞという翌年1月の合宿になるとマスコミは約150人に膨れあがっていた。自分を取り巻く社会の意識が変わっていく感覚を、よく覚えている。何かが動き出すその感覚を、ラグビー代表も感じ始めていると思う。


 「うん、日本サッカー、いいね」。90年初頭、余裕たっぷりで声をかけてきたサウジアラビアの選手。でも93年W杯予選のころになると、エレベーターで鉢合わせても話しかけてこない。敵と見なし始めてくれたんだね。温かい目で応援されるうちは第1段階。本当に強くなると、憎まれる。かつて韓国に金鋳城(キム・ジュソン)という名選手がいて、当時、彼と僕は口もきかなかった。89年から3年連続でアジア最優秀選手に輝いたのが彼、92年度受賞が僕。意識し合う間柄だったからね。


 それが2002年の日韓W杯、神戸のラーメン屋でばったり再会して。「ミウラ、頑張っているな。伝え聞いているよ」。温かく抱き合ったのを思い出す。10年の月日が、火花を散らした敵同士も互いにたたえ合う仲にしてくれる。そんな段階を迎えられるのも、いいもんです。